夜想

夜中。 正確には一時二十七分。 コップの中によく冷えた水を入れて、その周りについた水滴を眺めていた。 細かかった水滴は、どんどん大きな滴になっていき、少し目を離した隙に一筋流れ落ちていった。 中身は減らない。 全く関係無い所から表出した水は、しかしコップの中身と近い様に見える。 「オレンジジュースでも注げば、そう見えないんだけどね」 だが、その時はその時で、コップの中身が透けて外側の水滴までも同じ色に見える。 「勘違いなのにさぁ…」 また、水滴が落ちる。 コップの周りに小さな水溜まり。 「やだなぁ…そういうの得意じゃないのに」 誰に見せる訳でもない。 誰が聞く訳でもない。 それでも無理矢理明るい口調にしようとする自分が嫌になった。 コップに触れるとまだ十分冷たい。 一息に飲み干すと、少し息苦しく思える。 濡れた掌を眺めて溜息を吐いた。 どうせ水だ。 何れは蒸発して、元居た所へ帰っていくのだ。 ―――それならば、何故、滴になどなったのだ。 手の甲に落ちたのは、全く無関係な水滴だった。 コップの中身でも、外側の水でもない。 ただそれが何なのか、気付いたら終わりだと思った。 「だからさぁ…誰も見てないのに…なんでかなぁ…」 張り付いた『人格』を剥がす術がわからない。 風一つ吹かない夜は、妙に温く感じた。 / 携帯のディスプレイが光る。 十二時を少し過ぎた位らしい。 メールの受信を知らせる振動がやや遅れて始まる。 「…あれ?相馬さん…」 あまり普段はメールのやりとりなどしないので、少しばかり違和感を感じる。 それに時間も時間だ。 「珍しい事も有るもんだなぁ」 そう思って携帯を開けて、暫く呆然としていた。 文字の並びは分かる。 日本語としての間違いもない。 しかし。 「…え、どうしよう」 『仕事 やめようかな』 まさかそんな重い話なのだとは予想も出来ず、キーの上に置いた指は固まったままだ。 でも、これは店長に送っている訳ではないんだし、まだ辞めるつもりだ、と言われた訳でも無いし――― 「…相馬さん、何かあったのかな…」 そう言えば最近調子が悪そうな時も有った。 昨日も別に元気いっぱい、という感じではなかった。 「うーん…ストレスかなぁ…」 考えつつもどうした物かと思っていたら、二度目の振動が来た。 『ごめん、間違えちゃった。気にしないでね、また明日ー。』 「それ…ますます気になるじゃないですか相馬さん…」 本来送るはずだった相手が誰なのか、思いつきそうで思いつかない。 彼が本心から弱音を吐くところを想像できないのだ。 愛嬌のある人だとは思うのだが、少し怖いぐらい自分の事を話そうとはしない。 普段見えない部分が垣間見えた気がして、驚いた。 だから。 そんな風に誰かに弱音を吐くこと自体、考え難いのだ。 「メールって…やっぱり誰かに送る物だよな…」 誰に。 やっぱり具体的な誰かは思いつかない。 「ああ…でも仕事の関係以外にも知り合いとか居るだろうし…」 不思議と「そうではない」気がしていたのだが、取り敢えず考えるのはやめにした。 詳しいことは明日聞けば良いのだ。 あれこれと思い巡らしたところで仕方がない。 兎に角、寝よう。 それが一番良いように思われた。 / 『―――で、なんで僕なの?』 電話越しに聞こえる声は、いつもの二割増しぐらいぼんやりとしていた。 「お前しか起きてそうな奴が居なかったんだ」 煙を吐き出して、外の景色を眺める。 と言っても、大して良い景観ではない。 たかだかアパートから見える―――それも田舎の風景だ。 木と道路と、星空だけがまともに見えるような代物なのだ。 『…轟さんは?』 どうにも機嫌が悪いのか、口調はいつも通りなのに、中身は刺々しい。 「…寝てるだろ」 掛けるも何も、そんな仲ではない。 そんな仲にならないことも明白で、だから一生夜に電話をする機会なんて無いんだろうとも思っている。 『俺が寝てるとは思わなかったんだ…』 呆れたような何かを感じてやや戸惑った。 相馬が俺に対してこんなにもきつい態度を取るのは珍しい。 「寝てたのか?」 もしかすると本当に寝起きなのかもしれない。 『…いや、寝付けなくて困ってた所だよ』 煙草の灰が落ちる。 「こんな時間までか」 振り返って部屋の時計を確認すると、もう疾うに二時を過ぎていた。 『お互い様じゃない。佐藤君だって寝られないから掛けてきたんでしょ?』 確かにそれもそうだ。 「なんか―――布団に入っても目が冴えたままでさ」 因みに、煙草はこれで五本目だ。 『今日はちょっと大変だったもんねぇ…轟さん』 今一番聞きたくない名前をピンポイントで刺してくる。 しかも悪いことに電話なので、殴って黙らせることも出来ない。 「別に、轟だけがどうってわけじゃねぇよ。それ以外にも色々有ったんだ」 『へぇ、そうだったんだ…精々店長が轟さんにいつもより一杯多くパフェを作ってもらってたぐらいしか気付かなかった』 普通、そっちの方が気付かない。 「大体お前も調子悪そうだったし」 短くなった煙草を携帯灰皿に押し込む。 そろそろ部屋の中に置いてある灰皿に空けた方が良いかもしれない。 「…相馬?」 携帯を肩に挟んで灰皿の中身を空けている間、一切声がしなかった。 「電波悪いのか?まさか電話しながら寝るとかないよなぁ…」 「おーい、相馬」 『なんで、そう思ったの』 掠れた声が聞こえた。 やっと絞り出したような声は、電波だけのせいではなさそうだ。 「…だってお前、ずっと顔色悪かったぞ」 これで最後にしよう、と思って六本目に火を点ける。 『―――ねぇ佐藤君、明日休んでも良いかな』 なんだかとても狼狽えているような調子だ。 気のせいかも知れないが。 「何で」 聞くと、 『………いや…でも…』 とやはり要領を得ない返事しかない。 「お前が居ないと困るだろうが」 息を呑むような音が聞こえる。 『…酷いなぁ…佐藤君って』 何故だか分からないが、相馬が泣いてるような気がした。 電話越しの声は分からない。 でも、何となくそんな気がしたのだ。 「はいはいわかった。じゃあ明日また職場でな」 返事も聞かず電話を切った。 通話時間自体はさして長くもない。 ただ、履歴画面の発信一覧は、相馬博臣という名前で埋まっていた。

男の子達の微妙な力関係を妄想して楽しむお仕事。 相馬さんをそろそろあれな感じにちょめりたいなぁと言うだけならただ。 2010/06/12