どうしてこんなにも空が蒼いのかと泣きたくなる瞬間が有る。 作り物の空が、どうしてこうも悲しく見えるのか分からない。 そして、胸を掻き毟られるような痛みと共に、俺は空に焦がれた。 飛ぶということを愛して、限界の有る空に無限の夢を見る。 空は斯くも哀しく、美しい―――ブルーバード
「なぁ、アルト」 彼は空を見上げながら、その名前を呼んだ。 「ん?」 一応返事をしたが、あまり意味を成さない。 彼は時折、こんな風に意味も無く名前を呼ぶ。そこにいることを確認するだけの。 或いは、その名前を口に出来るということを思い出すかのような。 視線の先には、ひたすらに蒼い空と、白い雲だけ。 実際に飛んでしまえば大した高さもない。飛ばせば、すぐにその終わりに辿り着いてしまう。 だがこうして見ていると、どこまでも続いているように錯覚する。 いっそのこと、本当にどこまでも続いていれば良かったのに。そうすれば、きっと… 風が吹いた。 彼はカタパルトデッキの柵に身を預けている。 いつも通りきっちりと制服を着こなして、空を、見つめて――― 不意に、彼の視線が此方に向けられる。 「…アルト?」 穏やかな声。 「え…あぁ…」 しどろもどろになりながら、何とか意識を現実に引き戻す。 一瞬、彼の瞳が揺らいだ。宝石みたいに光を取り込んで、煌く。 「どうした…?」 聞かれても、自分でも掴みかねているのだから答えようがない。どうして、こんなにも… 「…いや…別に…」 なんだ、わからない。 「じゃあ、なんでそんな泣きそうな顔してるんだよ」 今日ほど、彼の声の甘さを呪った日は無い。 「……知らねぇよ…」 顔を背けて、瞳に空を映す。 ―――ああ、彼に翼など無ければいいのに 「…変な奴」 どうして、そんな風に柔らかく笑う。 どうして、そんなに澄んだ目をしてる。 それが、訳も無く悲しかった。…もしかすると「悲しみ」に似た何かと取り違えているだけなのかもしれない。 この感情の名前を、俺は間違えているのだろうか。 「悪かったな、変で」 彼の方に向き直れない。空の蒼が目に沁みるが、今は彼の方がずっと目に痛い。 「…俺は、嫌いじゃないよ、そういうとこ」 …彼は、決して「好きだ」とは言わない。嫌いじゃない、とか。悪くない、とか。 二重に否定することで漸くポジティヴな表現になる。 それは、彼なりにルールがあっての事なのか、無意識の結果なのか。 そんな所さえも、今の自分には耐え難かった。 「…ミシェル」 今度は、此方が名前を呼ぶ番だった。 「…どうした?」 視線を滑らせて、彼を見つめた。 「…ん?」 彼は、何も続きを言わない俺を少し訝しげに見返す。それでも俺は無言で…何も言えずに彼を見つめているだけで。 「…ほんと…今日は何かあったのか?」 苦笑交じりに言われてもやはり、ただ見つめているだけで精一杯だった。 無性に、泣き出したくなった。彼を捕まえて、羽を奪って… 「…なぁ、ミシェル」 喉が渇いてうまく声が出ない。目の奥が焼けるように熱かった。 「………言いたくないなら、言わなくて…良いからな」 彼の目に映る蒼が、沁みる。 「…ミシェ、ル」 壊れたように、名前ばかり呼ぶ。 どうすれば、この感情を持て余さずに済むのだろう。こんなに、痛いだけの… 彼の右手が、そっと左頬に触れた。 「落ち着けよ、アルト」 また、風が吹く。 彼の前髪が吹き上げられるのを、ぼんやりと見つめた。眼鏡越しの瞳はなんだか遠い気がした。 許可も取らずに、眼鏡を奪い取る。 隔てるものの無くなった深緑は瑞々しく輝きを放つ。 「俺は―――」 頬に添えられた手を上からそっと握る。 「俺は、どうして」 ああそうか、これが「切ない」という事か。こんな風に、気分の悪いぐらい胸が締め付けられるような思いが… 「こんなにも…お前が欲しいのか分からない」 真っ直ぐに見据えた相手は、予想通り狼狽している。 「アルト…?」 踏み出せば、もう、戻れないだろう。 それでも尚、俺はこの手を離す気にはならなかった。墜ちるなら墜ちればいいんだ。 それで、彼が手に入るのならば構わない。この正体の無い思いに押し潰されるよりは、余程マシだ。 「それでも、お前が欲しいんだ…ミシェル」 ―――だから、そんな風に儚く笑わないでくれ。 「…ばーか…」 泣きそうな顔で、彼は呟いた。その瞼を閉じて、揺らぐ瞳を隠す。 不意に唇が、音も無く何かを紡いで――― そうして、全てを振り切るように、ただ空は蒼かった。2010.08.07 サルベージ。そのまんま過ぎる。