今まで見てきた全てを、 愛した物を、 憎んだ物を、 何もかも丸ごと、俺だけの物にしておくためにはもう、 脳を撃ち抜いてくれるメサイアを待つしかない。救世主の不在
「―――薪さん」 眠りの底から引き上げようとする声。 聞き慣れた心地の良いトーン。 柔らかく、温かく、手を差し伸べようとする、そんな声だ。 目を開けて一番に見るのが、親愛に満ちた顔であるというのはとても幸福なことだ。 日頃怨嗟に晒されているとどうしても、たまに癒しを求めたくなるのは人間の性である。 ―――だから、必要以上に美化された映像であることも、何となく感じ取ってはいる。 「青木」 呼び慣れた部下の名を呼ぶ。 自分について回る過去とはっきり識別するために、他の部下よりも多くその名を口にする。 あれとは違う、似て非なる物だと教え込むために。 「お疲れ様です」 そう言って目に掛かっていた前髪を指先で軽くどける。 いつもキーをタイプしている指が、瞼と頬に触れた。 じわりと、触れられた場所が熱を持つ。 視界を一度消去し、もう一度開く。 ごく自然にしている部下を眺め、ああ、こいつもか、と内心で溜息を吐いた。 何でもないことのように手を伸ばしてくる。 当たり前のように抱き寄せる。 温かい掌で頭を撫で、優しく笑う。 人間の良い面ばかりを見せてくれようとする。 俺がこれ以上人間という物を嫌いにならないように、慎重に、しかし無意識で。 …ああ、また誰にも見せられない事を。 「今何時だ」 時計が見あたらず視線を彷徨わせた。 腕時計は寝る前に外した記憶がある。 「えっと…九時半ですね」 右腕に付けられた腕時計の針が逆さに見える。 「…そうか」 起き上がるために椅子に手をついた。 予定よりも寝過ぎた。 目覚ましを掛けておかなかったのが悪い。 「あ、就業時間にはまだ余裕があるのでもう少し寝ていて下さって大丈夫ですよ」 慌ててこちらを制止する。 「そうは行かないだろう」 大体、起こしたのはこの男ではなかったか。 「済みません、魘されていたようなのでつい声を掛けてしまって」 ばつが悪そうに頭を掻いた。 そこはお前が謝るところではない。 全く、呆れた奴だ。 「大方、胸部を圧迫された状態で寝たから、ろくでもない夢でも見ていたんだろうな」 記憶にない以上、何とも言えないのだが。 「枕になりそうなものでも探してきましょうか?」 …すっとぼけた奴め。 「だから、もう寝る必要はないと言っているんだ」 そう言うと、端と手を打って 「あ! じゃあコーヒーでも淹れてきますね」 返事も聞かずに姿を消した。 つくづく下っ端が板に付いている。 それがおかしくも愛おしかった。 あの男が居ると、それだけで笑う機会が増える。 良いことなのか悪いことなのかは別として。 ふと、腕の中にある本の重みを思い出す。 そうだ、忘れてはいけなかった。 俺がこうして何かを考えること自体――― 「薪さん、コーヒーです」 どきっとして見上げる。 「熱いから気を付けて下さいね」 ああ、誰にも見せられない! 2010/09/22 読書感想文。 漫画がもうなんていうか神過ぎて つら。 薪さんを崇拝して止まない。